コーチ自身が、過去の自分を認めているか?

コンサルタント、コーチング、カウンセリングにつかうセールス・トークとして

『毎朝の通勤地獄、残業時間3ケタのダメサラリーマンだった僕が』
『つまらない仕事、パワハラ上司、女子会マウンティング三昧で、人生に何の希望も見出せなかった私』

などなど、ご本人の「過去のダメな自分」を引き合いに出して、

『今の私は過去の『ダメな私』からこんなに変わりましたよ!』

といった文章を、これでもかと沢山見かけます。

「これだけ変われた」という比較、つまりビフォーアフターを見せることは、何を売るにしても、商品の魅力を伝える上で大事なことですし、その商品を必要とする人たち、特に「変わりたい」と願っている人たちの心理に訴えかけるには、とても効果的です。これは悪いことでもなんでもありません。

 

しかし、時々感じるのが、
「変われた今の自分」を強調するあまり、
「過去のダメだった自分」を、あまりにもけなしている人がいる。
現代風に言うならば、ディスっている、と言いますか。

過去の自分のこと、自分の置かれた環境、
仕事、人間関係、家庭環境、親子関係など、
当時は本当に本当に本当に嫌で、苦しんで、もがいて、
変わりたくて、変えたくてたまらなくて、
もの凄い努力をされて、成果を出して、
そのノウハウを立派な商品にされてるのは
とても伝わってくるのですが、
「ここまで卑下するのは何故だろう?」と感じることがあります。
まぁ、セールストークという面で誇張が入っているのかもしれませんが。

 

講師業、コンサルタント、コーチ、カウンセラー、アドバイザー、セラピストなど、なんでもいいですが、ご自身のセールストークやブログで「過去のご自身の姿」に言及されたことのある皆さん!

そんな「ダメだった過去の自分」、今では愛せていますか?

特に強く疑問を感じるのは、
ブログやSNSなどのメディアで、「今の幸せな自分」を見せるのと同時に、事あるごとに、「過去のダメな自分」を引っ張り出しては叩く人。

「この幸せ、XX年前の私に見せてやりたい」とか、
「あの頃のダメ社員だった俺に比べたら」とか、
事あるごとに、過去の自分を卑下する人。
昔の自分が、今でもそんなに大嫌いなんですか。

過去の自分が許せない人が、
「今の自分は、これだけ成功しました!変われました!」
「未来は自分で作れます!変われます!」
と声高に言っていても、
この人、今の自分を本当に信頼出来てるのかな?と思ってしまう。

なぜなら、今どんなに劇的に変わったとしても、
「過去の自分がいた」という事実は変えられない。
結局、その事実から目を背けて、認めたくないだけなんです。

その過去の自分の良い部分も嫌だった部分も、白歴史も黒歴史も全て、その存在を丸ごと認めて、許して、愛してあげられないのなら、

過去の自分を否定しながら、殺し続けながら、その屍の上で「今の自分」を売り出しているのと同じこと。

そんな人から、サービスを受けたいですか?

 

Aさん「仕事も恋愛もダメ、会社や社会に文句ばかり言ってたダメサラリーマンだったけど、あの頃の自分があったから頑張れた。今では笑っちゃうくらいだけど、あの時は必死だったんだなぁw」

Bさん「昔の自分なんて思い出すのも嫌。馬鹿でしかない」

あなたがコーチングを受けるなら、AさんとBさん、どちらから受けたいですか?

 

これね、
「過去の自分を全てポジティブにとらえろ」
「ダメな自分を忘れろ」
ということではないんですよ。

思い出したくないこと、恥ずかしい経験、期待されながら失敗したこと、やりきれずに逃げ出してやめたこと。生きていれば、誰でも持っています。そんな自分を、今はどう感じていますか?今だに許せませんか?それはなぜですか?

 

「自分を変えたい、人生を変えたい」と思って自己投資している人は特に。

お金を払う前に、そのサービス提供者が「過去の自分をどう思っている人なのか」を、ブログやSNSの文面から見極めることをお勧めします。

私自身、受講への一つの判断材料にしています。

ひとこと、悔しい!

自分の力ではどうにもならない「理不尽」が重なって、いま非常に悔しい思いをしています。

こういう時、私は「分析思考・問題解決思考」がとても強いので、
感情を脇に置いて、因果関係とか、再発防止策をひたすら考える傾向があります。
それも正しい。仕事ならそれで回るから。

でも、今回は「この野郎・・奈落の底まで行ってやろうじゃないの・・・w」という、打ちのめされた末のおかしな実験欲と怖いもの見たさ、同時に
「この悔しさ、絶対に忘れるな!!」という鋭く強い怒りもあって、
「棘と毒っ気のある強い甘み」を恐る恐る味わってやろうじゃないの、という妙なところにいます。仕事中です。

色で表すと、
腐ったオレンジとアケビのような鮮やかな紫、そして漆黒が混ざったような感じ。まるでハロウィン仕様です(笑)流血はナシで。

こいつらを底の底まで感じきって、奈落の放物線の底にしっかり手をついてから、初めて「さて、どうする?」と整理していきたいのです。

 

当時はオフィスにいたので、あまりの悔しさに、トイレに行くたびに壁の一枚でもぶち抜きたくなる衝動に2回くらい駆られたけど、それが「理不尽」を前に自分の中に起こっている、偽りのない反応だと感じたし、それを俯瞰的に、良し悪しのジャッジを入れる事なく、クリアに検知することができた。

そういうネガティブな感情ほど、平然と感じなくなることが一番怖いからね。
(それを表に出すかどうかは、また別の話です)

仕事は、そのイライラ感を逆噴射する勢いで、一気に終わらせました(笑)

 

さて、悔しい感情を感じ切るとか、奈落の底の底まで行くとか、
なぜこんなことをするかというと
実はそれが私にとって、次に進むための最短ルートだから。

理性で蓋をして、解釈や意味づけを一生懸命やったり、
甘いものやお肉やお酒で満たしたり、何日もモヤモヤするのもいいけれど。
一気に感情の底まで駆け抜けるほうが、
瞬間的に大きなエネルギーは必要とするけど、回復も早いのです。

そして次に進みやすい。行動に移る時間も早いし、他のことへの影響も少ない。

強い激しい感情というのは、感じた瞬間は不快なものですが、
その感情の放物線の底をついてみないと、わからない境地がある。
でも、実はそれが最強の上昇エネルギーに変わることがある。

放物線じゃなかったかもしれないし、そこでどんな視界が待っているのか、わからないのがまたスリル。・・怖いけど。
きっとそれを感じ尽くしたいのだろうし、その先にある未来を信じているんだと思います。・・怖いけど!

感じきる方法は色々です。コーチングのクライアントさんには、実践としてお伝えすることもあります。

ここまで書いて、自分が、好奇心の塊のような人間だと改めて呆れていますが、
ここまで書いただけでも、昼頃にあった激しい感情は、ちょっと質感が変わっています。

だから面白い。人生は全て実験。
これも私のライフワークのひとつなんだと思います。

どうする?価値観の違う親との会話術

親と話をすると、家庭、食事、働き方、お金など、「価値観が違うなー」と感じる時はいくらでもあります。

「みんな違って、みんな良い♬」で終わればよいですが、それだけでは済まないのが、親子の会話。では、どうすればいい??

私のコーチング・セッションでもたびたび出てくる「親子の価値観の違い」問題。今回はこのテーマに、私の経験や実践にもとづいた、会話やコミュニケーションの面からのアプローチをしてみたいと思います。

まずは、私の実例から。

夫の健康管理は、妻の仕事?

私の夫は、食べる量が多い人間なので、見た目「食べっぷりがいい」と言えばそれまでですが、しばしば食べすぎてひっくり返っています。

私の母親がそれをLINEで見て「奥さん(つまり私)がしっかり健康管理しないとね!」と言うことがあります。ここで私は違和感を感じるのです。

夫の健康の管理は、妻である私の仕事なのか?
子供ならいざ知らず、自分の意思で病院にも行ける、立派な大人じゃないか。

世の奥様がた、そんな言葉ひとつで目くじらを立てるなんて、と思わずに、まぁお付き合いください。自分の中に湧く小さな違和感って、無視しちゃいけないんですよ。

悩むまでもなく、「男は外で働き、女は家で家庭を守る」という大前提のもとで、それで社会も経済も家庭も(なんとか)うまく回っていた時代を生きてきた中で作られた、その人の価値観が現れています。夫婦は、現代よりも「完全分業化」していて、「24時間戦える夫の健康管理は、専業主婦である妻の仕事」という考え方を、私の母親も当時なりに納得して、自分の使命として家庭を営んできてくれたのだと思います。その生活の中で私が生まれ、育ててくれた事実もあるので、母親への感謝の気持ちもそこにはあります。

でも、今の私と夫は共働き。働き方も違うから、ご飯が三食別々になることもあるし、寝る時間、起きる時間だって違う。加入している健康保険だって、別々です。このように、自分の親たちとはすでに異なる働き方、生活スタイルを積み上げている以上、自分の親と価値観が違ってくるのは自然なことです。

価値観が自分のものと違うからといって、どちらが良い悪いの話ではないのです。

さて、ここからです。価値観の違う人とうまくコミュニケーションをとる上で、「正論だけど、使わない方がいい」言葉がありますので、代替案と共にご紹介したいと思います。

「時代が違う」「価値観が違う」では解決しない

親の価値観でものを言われたとき、異なる価値観をもつ子供が真っ先に言いたくなるのが、この言葉ではないでしょうか。

「お母さん(お父さん)たちの頃とは、時代が違うんだから」

私もかつてはよく使っていました。が、この発言をすることで、その場の空気が良くなることはなかったと記憶しています。

親とは、時代も価値観も違う。確かに事実だし、正論ですから、これを論破のためにバシッと使いたくなる気持ちはよーくわかります。

でもこれね、言われた側は、決して良い気持ちにはなりません。あなたとは違う、と言っているつもりでも、自分たちが時代遅れなのか、価値観が古いのかと感じたり、今まで生きてきた人生や時代を否定されているような、悲しい気持ちにもなってしまうんですよ。

人によっては、子供がそんな生意気を言おうもんなら「時代なんて関係ない!これは常識だ!」などと意固地になってしまい、親子関係がますます険悪になってしまうこともあります(これ、20代の頃の私なんですが)

流石にここまでくると、親の側にも、そろそろ手放した方がよいものがあるのですが、ここはまた別の機会に書きたいと思います。

自分なりの愛情表現を伝える

だからといって、自分を親の価値観に合わせる必要もありませんし、あなたはあなたの価値観を貫いて生きてほしい。親と価値観が異なることに、罪悪感を感じる必要もありません。

価値観の違うもの同士のコミュニケーションにおいては、相手に違和感を感じた時に「相手を自分の価値観に合わせようとする」防衛本能のようなものが、人間にはあるのかもしれないと思っています。

親にも、自分にも、そういう部分があるんだな、と思うようにするだけでも、親との会話のしかたが少し変わってくると思っています。

 

それでもやっぱり「私の価値観はこうだよ!私はこうするよ!」と親に言いたくなることがあるでしょう。それは良いことだと思いますし、自分で自分のことを決めている証。

私もそういうタイプなのですが、ただガツン!と言うだけでは「対立」になってしまうので、できるだけ親にもメリットを感じてもらえる言い方を、長年研究してきました(笑)それが、こちら。

「私が病気や災害にあって動けなくなっても、夫が自分で食事や健康管理ができて、非常時でもどちらかが元気でいられるように、普段から健康管理はお互い自分でやるようにしているよ」

妻だって、常に元気でいられるとは限らない。特に、災害の多い昨今、専業主婦として家に居たって、いつどこで災害に巻き込まれるか、テロや感染症に巻き込まれるか、誰にもわからない。夫にはいつも健康で元気に生きてほしいという妻としての愛情があるからこそ、お互い自分でやれることは自分でやろうね、でも、出来ない時はお互いカバーしようね、というスタンスであることを伝えています。

さらに「お互い忙しいから、お互いの体のことはいつも気遣うようにして、感謝も伝えているよ」とフォローすれば、納得してもらえるかもしれません。要は、

「自分と異なる価値観であっても、それはそれで成功例がある」
「妻として、ちゃんと夫への愛情がある」

ことを見せてあげて、安心してもらえればよいのかな、と思っています。

私の親の例でいうと、「うまく行っているなら、それでいいのよ」とあっさり会話が終わることもあります。価値観が親と子でガラッと変わるような、変化の激しい時代であっても、子供はその時代に合わせてたくましく生きているのね、と思えたら、親として安心できるのかも。その気持ちをコミュニケーションの中で感じてもらえればよいのではないかと、思います。

親や祖父母の世代の中には、現代の「なんでも自己責任」的な風潮に、違和感や寂しさを感じている人がいるのも事実。夫婦間まで「なんでもかんでも自己責任」という雰囲気を感じると、つい自分の経験を伝えたくなるのかもしれませんね。

相手を尊重しながら、自分を貫く

究極のところ、これなんですよね。「これが難しいから、悩んでるんじゃん!」という声が聞こえてきそうですが、コミュニケーションの問題は、コミュニケーションの実践でしか解決策は見つからないんです。本だけ読んでも実践しなければ、何も変わらないのと同じです。

親との価値観の違い問題については、子供はとかく「親の価値観は古い」という前提で言葉を進めがちになります。事実、今の時代にそぐわないものだとしても、親の価値観は、親のもの。子供の自分が変えてやろう、などと思うのは、相手をコントロール(支配)しようとすることに他ならず、相手への潜在的な恐怖の裏返しでもあります。帰省のたびに価値観マウンティングをし合っていても、親子で過ごせる生涯の残り時間は淡々と減っていくだけです。

この人は、こういう価値観で生きてきたんだな、こういう時代だったんだな、とまず受け止めてあげて、その上で「でも、私はこうする」と切り分ける。親子であっても、あなたはあなた、私は私。それでいいのです。

 

それでもなお、親が過度に干渉してきたり、親の言葉にものすごく影響を受けているな・・と思うことがあれば、親とのコミュニケーションにおいて、何が本質的な問題になっているかの整理が必要になってきます。そんな時に、コーチングがお役に立てるかもしれません。私自身、コーチングを受けるようになってから、親との関係やコミュニケーションを、より良い形に立て直すことができた一人です。

プロコーチとして、学び続ける。

自分史、編纂中!

こんにちは、金城文乃です。

今、ある取り組みのため、自分の幼少期からの出来事、感情、学んだことなどを【全て】書き出す作業に没頭しています。

転校などの大きなイベントだけでなく、友達に言われたことなど、記憶の限りを絞り尽くして書き殴っています。

実際、書き出してみると、どんどん思い出すものですね。

そして、まぁー出てくるわ出てくるわ出てくるわ、
当時の生々しい光景や、味わったエグい感情、叫んだり不貞腐れてる小さな私が、これでもかと。

その時は「言葉にできずにいた得体の知れない奴」だったのが、
今の自分なら言語化できたり、タラレバを入れずに客観的に見れるようになっていて「これが大人になったってことかっ!」と妙なテンションになりながら、ランチも惜しんで取り組み中。

けっこうエグい、でも良薬

思い出を活字化するのは甘酸っぱくもあるけど、気持ちいい、楽しいだけの作業じゃないんです。

脳って、生存本能としてポジティブな出来事を優先的に記憶して、命の脅威となりうるネガティブなことは忘れるように出来ているといいますが、実際に思い出すことは、楽しいとか嬉しいことばかりじゃないんですよ。叱られたこと、恥ずかしい思いをしたこと、言われて嫌だったこと、理不尽なこと、気に入らなかったこと・・記憶とセットでもれなく付いてくる感情もすくい取るので、エグいし、文字として掘り起こすだけで凄まじいエネルギーを使うときもある。

なんせ、小学校時代だけで書き終わるのに2日かかりましたし、見直しているときに突然別のことを思い出して追加したりしていて、エンドレス。

でも、これ自体も、今の私にとっては「学び」なのです。

プロコーチこそ、学び続けろ

2018年7月に、プロフェッショナル・コーチの資格を取得しましたが、資格を取っったからといって、学びは終わりません。

自分がクライアントだったら、何歳になっても学び続け、問い続けている姿勢が伝わってくるコーチにこそお金を払いたいですね。

プロコーチとしての学びの一環として「これまでの人生」を総ざらい文字化しています。

これをしっかりとカタチにして、皆様にお届けする日も近い。

楽しみにお待ちください。

 

Nobody knows you

今日から、とある学びの場に参加しています(有休で)。

 

学びの内容についてではなく、そこであらためて感じたこと。

 

「共通言語を捨てた自分が、何を伝えられるか」
「自分の生き方を、初心で伝えられるか」

 

全員が初対面で、誰も自分の顔も名前も経歴も知らないし、
そこに業界用語を盛って説明したら白けてしまうような場で、自分のやっていること、生き方をさらけ出すということを、最近やっていなかったな、と愕然とした。

 

内輪話ができる場は、確かに安心で楽しいです。
自分も相手もお互いによく知っていて、共通言語もあるし、
誰かに喜怒哀楽あれば、手放しで祝い、花を手向け、涙を流し、手を差し伸べることだって出来る。
ただ、居心地が良くなるぶん「いつまでもこの状態が続いて欲しい」とお互いが無意識に願うようになるので、刺激は少なくなるし、成長のスピードや度合いが似たり寄ったりしてくる。
良い悪いではなく、そういう場に長く留まると、だんだん落ち着かなくなるのが、私の性癖。

 

SNSでも、リアルでも、
自分の見ている世界なんて、この世界の99%以上の人は知らない。
自分が見ている景色に入り浸り続けると、そこが世界の標準に見えてくるし、自分の知っていることは、他人も知っているはず、と錯覚してしまいがち。

 

今回、久しぶりに「内輪ネタの通じない」場に飛び込んだので、刺激はあるし新鮮だし、初心に戻るべきは受講生でなくオマエだ、と「場」に言われている気がして、身が引き締まる思い。いい緊張感です。

 

互いに与え合う良質な刺激と緊張感。これも、人生を面白く豊かにするためには欠かせない。

これからの二日間、自分に課したのは、
「共通言語を捨てた自分が今、伝えるべきことは何か?」を常に意識すること。

 

もちろん、そういう場で一日過ごすのは、楽しいばかりではないし、心も体力も消耗するよ。
でも、その場に自分の時間という「命」を使う選択をしたのは自分だし、この場だけに限らず、
「自分の命を何に使いたいか」をとても強烈に意識するようになった。

 

そのために日々、他のどうでもいいことで消耗しないために、
家事に時間をかけるのをやめるべく投資し、
SNSのダラダラ見をバッサリ止める仕組みを作り、
3日以上読まなかったメルマガは全て解除した。
これはごく一部のDoingに過ぎないけれど。

 

誰も私のことを知らない。
「初心に還る」とは、ここを受け入れることから始まると思う。

【書評】「好き」と「ネット」を接続すると、あなたに「お金」が降ってくる

年間1000万PVを誇るプロブロガー・立花岳志さんの新刊

「好き」と「ネット」を接続すると、あなたにお金が降ってくる

の書評です。大半が自分の行動のための分析になっています(笑)

この本、単なる情報発信ノウハウ本ではありません。

Facebook、Twitter、ブログ、Instagramなど、何らかのSNSで発信をしている人、これからしてみようと思っている人も、ぜひ手にとって頂きたいと思います。

情報発信とは?

友達限定投稿、内輪話は情報発信ではない。

情報発信とは、誰かの役に立つ、価値があるものを提供すること。

頭ではわかっているけどね・・・という声が千人くらい聞こえてきそうなので、ここは私なりにイメージしてみました。

(ロジックをイメージに置き換える。本からの学びを自分の行動に落とし込む上でも重要なので、本や論文を読むときはよくやっています。)

 

情報発信をするときは、「誰か役立ちそうな人に届けたい」。そんな思いがあるから、願いのベクトルが自分から外側に向かって開いている。

一方、交流投稿をするときは、「自分はこう見られたい」という気持ちが無意識下で働くため、願いのベクトルは自分へ、内側へ向かっている。

 

だから、

情報発信をするなら、視線は「世界のどこかで読んでくれる誰か」へ向けて書くこと。

自分の視線がどっちを向いているかを意識してみるだけでも書く内容が違ってくると思います。

 

ここで「こんな情報、誰かの役に立つのか?」という葛藤とエンドレスにダンスすると思いますが、それは読んだ人が決めることなので、こちらで悶々と悩んでいても、答えはきっと出ません。

それよりも何よりも「まずは出してみる」。立花さんは情報発信の習慣化のコツとして「質より量より更新頻度」を挙げています。

好き→得意→強み→お金 のスパイラル

強みは、好きなことから生まれる

逆に言えば、自分の強みは「好きなこと」の中からしか生まれないということ。

自分の強みがわからない、という人はとても多いけど、自分の強みを見つけたいなら、まず好きなことを何でもやってみること。

ところが、「自分の好きなことすらわからない」という人も非常に多いんです。

私自身の経験から、
「やるべきことが先。好きなことをやるのは後」という我慢人生歴が長い人ほど、自分の好きなことすらわからなくなっている気がします。

そんな人に「あなたの好きなことはなんですか?」と聞いても、すぐには出てこない。だから紙とペンを与えても、きっと何時間も何も書けないまま、頭を抱えてしまう。無理もないことです。理由は何であれ、ずっと封印してきたんだもの。脳が考えることを拒否してしまっている。

 

「好きなこと」がわからないなら、「好きではないこと」「やりたくないこと」からアプローチするのも一つの方法です。ネガティブな考えに見えますが、人間は「嫌い、やりたくない」ことの方に、その人本来の願いや価値観が現れます。

 

「好き」を発信し続けるうちに「得意」になり、それを尖らすと「強み」になって、必要としている人から求められ、お金になる

 

このスパイラルに乗りたいなら、まずは自分の「好き」を見つけることと同時に、それが好きな自分も認めてあげること。好きなことにしろ、強みにしろ、経済的にも十二分に発揮できている人は、この辺りの自己肯定感がとっても強い。

「強み」を損得勘定ベースで作っても続かない

自分の黒経験が蘇ります・・・情報発信をするとき「この分野は儲かるから」「アクセス数が稼げるから」という理由で、好きでもない分野の記事を延々と書いても、ちっとも楽しくない。楽しくないので、続かない。

これまたコーチングでの話になりますが、「自分の得意なこと」は見つかっても、実は「それが好きとは限らない」というケース、けっこう多いんです。

「何々が得意です」と言うので、それ好きなの?と聞くと、「うーん」という反応が少なからずある。自分の”CAN”をたくさん挙げられる人は多いのですが、「それが好きなんですか?」と聞くと「はい」という答えがまっすぐ返ってこないことが多いのです。要はあまり好きではない。

で、よくよく掘り下げてみると、儲かるから、給料がいいから、就職に有利だから、評価が上がるから、親が喜ぶから、すごいと言われたいから、といった「損得勘定」でやってるうちに得意になった、というケースが多いんです。

できるけど、別に好きではない。これだと「強み」にはなれないんじゃないかな。

「あぁ、自分はこれが好きだ」と心から感じられる瞬間があるか?

自分の強みは「これまでにやったことのあることで、なおかつ好きなこと」の中にこそ見つかる。「ないから作る」ではないのです。だったら、ここを徹底的に掘り下げれば必ず見つかるということ。こう考えると、今までの人生を振り返るのが、宝の山に行くような気持ちになります(笑)

まずはここまで。

いくらでも思考が深まる本

実は書評としてまだ書き殴ったうちの半分なのですが、この本、読み返せば読み返すほど「自分のことに置き換えたらどうか?」が出てきて、書評だけで本が書けそうな勢いです。

個人名、会社としてに関わらず、ネットで何かを発信したことのある人、発信するからには成果を出したいと考えている人なら、一度は読んでみることをお勧めします。

「好き」と「ネット」を接続すると、あなたにお金が降ってくる

幸せが、歩いてこないなら。

国連が毎年公表している「世界幸福度報告書」の2018年版が出た。

156ヶ国中、日本は54位。

ソース:
World Happiness Report 2018
Chapter 2 : Ranking of Happiness 2015–2017 (Part 2)

54位という数字に何か言いたくなったか、
日本の順位の周辺国を眺めて何かを感じるか、
去年から順位が下がったことを何と表現するか。
上位の国から共通点を探して何かを分析するか。

人によって、インパクトを感じるところが異なるのが興味深いところ。

移民と幸福度の相関関係についても言及があって、なかなか興味深いレポートなので、これを読んでも記事が2つくらい書けそうな気がしています。

 

******

 

奇しくも、こんなニュースが流れた日に、私は次のようなことを(仕事中に)考えていた。

「私は、最近ちゃんと幸せを感じているだろうか?」

ここからは、そのときの覚書き。


幸せ感度が下がるとどうなるか

一日1回以上、自分で「小さな幸せ」を感じないと、
幸福感への感性はどんどん麻痺していく。
他人の幸せは目に入りやすいので、
自分の幸せに対する要求レベルがどんどん高くなって、
その理想レベルから遥か下にいる(と思っている)自分や、
そんな自分をとりまく今の環境が許せなくて、
SNSで幸福そうに見える人を眺めては、また自分と比較して不満して、
毎日が不満だらけになる。

 

私はかつて、毎日仕事を終える頃には心身ともぐったり疲れ、
大きな仕事を終えても達成感は一瞬で消えてしまい、不満だらけだった。

「さぁ、次はこれをやらなきゃ」
「プレゼンのここがダメだった」
「誰々は仕事が遅い、発言しない、英語が下手」
「(終電で帰りながら)なんでこんなにワーカホリックやってんだか」

あれができなかった、
これをやらなかった。
自分にも、他人にも、そんなことばかりに目がいき、
仕事や会社、そこにエネルギーを費やす自分までがどんどん嫌になっていった。

何かを目標に頑張っているとき、
切羽詰まっているとき、必死な時ほど、いろんなことを我慢していたので、
「幸せなんて感じている場合じゃない!」となりがちで、
そういう意識は「自分はそうまでして、頑張っている」という自己肯定に使いやすいんだけど、その思考のクセが一度つくと、なかなか抜けず、体に染み付いてしまうんだ。

 

なんとかしたい。でも、誰かが何とかしてくれるわけでもない。

これは、もう「幸福を感じやすい体質」に変わるしかない。
体質を変えるには、日々の行動で、自己認知していくしかない。

 

幸福の感度を上げる。

「達成感」もいいけれど、もっと小さな単位での幸福感。
ほんの小さな幸福でも、感じやすくすること。
幸福を感じた自分を、否定したり律したりしないこと。

「こんなことで満足してちゃいけない」
「みんなはもっと頑張っている」

最初はなかなか大変だった。
こんな言葉がすぐに反応して出てくるのだ。

なんだかこういう言葉って・・
学校や会社で繰り返し聞かされてきた言葉だな、とつくづく思った。
一番、自分を幸福から遠ざける言葉だと、今は思う。

 

「毎日、小さな幸せを感じる習慣をつけましょう」

以前の私は、そういう思想を全く受け入れられなかった。
そういう言葉を聴いても、
「自己啓発ww」などと言って斜めに構え、必死に自分の中に入ってくるのを阻止していた。

でも、そうやって今までと同じ生活の中で我慢ばかりして、人や環境に不満や文句ばかり言って、なんの幸せも感じられない日々を延々と過ごしながら、
「自分と違う生き方を実践している人」をバカにして、
スピっぽい・・wとか
そんなキレイごと・・wwとか
宗教っぽい・・wwwとか言って。

斜め上から目線で生きてても、あまりにもつまらなくて、
結局何も変わってない自分に、もう飽きたんだ。

 

自分基準の「幸せ」に集中する

本気で、自分の小さな幸福に集中したいと思った時、
私は、自分が一番触れているSNSから少し距離を置いた。
SNSは、他人の幸福であふれている場所。
そこにいるだけで、自分の幸福と他人のそれを、ついつい比較してしまう。

 

あとは、
自分の感じた小さな幸せを、安心して共有できる「信頼できる人」がいればいいけど、当時はそういう人もコミュニティーもなかったので、
まず「自分だけで感じられる環境」を探した。

具体的には、とてもシンプル。
毎日、自分だけのノートや手帳、日記に書いていく。記録する
「できたこと」ではなく「幸せを感じたこと」

できた・できないという基準で探さないこと。
はじめのうちは「できなかった」ことばかりを探す目線になっているので、それだと単なる振り返り作業になってしまう。

どんなことでもいい。
通勤途中で見かけたネコがかわいかった、
今日は電車の遅延がなかった、
桜が咲きかけていて、ワクワクした、
夕日が綺麗だった。
ビールが美味しかった。
なんでもOK。
むしろ大げさなくらいがちょうど良い。

 

でだ。
ノートが終わったら振り返りましょうとか、
次の目標を決めましょうとか、
そういうことをしなくても、
ノートが一冊終わる頃には、見える世界が少し変わっていると思う。
それは、自分の幸せの感度が変わったから。

さあ、金曜日は、幸せを感じるチャンス!
書くことは、たくさんありそうだ。

”ダーク”コーチングのススメ

私のコーチングで扱うのは、ポジティブ!ポジティブ!なテーマだけではありません。

本当にやりたいことを見つけたい!
好きなように生きたい!
自己肯定観を高めたい!
自分の強みを見つけたい!

という人だけが受けるものなんでしょうか?
引き上げる、褒める、持ち上げる、とにかく前へ上へ!のための場なんでしょうか?

実際、そんな疑問を素直にお話してくださった方がいました。

 

結論からいうと、

「いいえ」
「それだけではありません」

もちろん、前述のようなテーマで、その人本来の願いや、響きのなかで満たされていく場になるコーチングは、私もたくさんやっています。どちらが良し悪しとか、優劣はまったくありません。

でも、

決して明るくないテーマから入るコーチングもあるよ
前へ!上へ!ではないコーチングもあるよ

ということなんです。

 

ある時、実際のコーチングで、

「今日は、まず悪態をつかせてください。吐き出してからじゃないと、いつまでもここにいる気がする」

と言ったクライアントさんがいらっしゃいました。
(この文章は、ご本人の掲載許可を頂いています)

一緒にその感情を深く見ていくことをお互いに確認した上で、私はもちろん快諾。

そしてさらにリクエストします。

「完全な他責でも自責でもいいから、とりあえず全部出してみない?」

その方は、ご家族との関係で、たまりに溜まっていたドロドロとした感情を、鬼のような形相で吐き出した。

そして私は、変わらずそこにいます。放たれた言葉たちやその主に、肯定も否定もしない。無理に励ましたり、たしなめたりもしない。でも、思いの丈を吐き出すその人すべてに、焦点を当て続けます。

 

コーチングは「吐き出してスッキリ!」が目的ではありません。
だから、ここはまだ、ほんの入り口

今の自分のドロドロした感情、今、自分の中で起こっていることの、もっと深ーい奥にある世界への入り口なのです。

今、この瞬間に起きている感情の奥にある「何か」。

そこを、お互い合意の上で、一緒に見に行くのです。

その果てには、どんな視界があって、どんな自分がいるのか、いないのか・・

 

「前へ」でもなく
「未来へ」でもなく
「治す」でもなく
「癒す」でもないコーチング。

 

でも、そんな静かで深い旅が終わる頃には、視界が、何かが、変わってみえるかもしれません。

 

***

コーチングは、とにかく前へ、未来へ!だけがゴールではないのです。
別にそれをゴールにしなくてもよいのです。

 

もちろんね、吐き出したらスッキリした!という過程はあってもいい。
その気持ちは、素直にキャッチしてください。
ドロドロを言葉にしてみて、自分の中にどんな変化が起こったのか、
そのスッキリが、今ココから、あなたの視界をどのように昇華させていくのか。

そこからまた、コーチングで旅を続けることもできます。

 

悩みやモヤモヤの深淵を、静かに深ーく見てみたい。
なんだかそこに答えがあるような、ないような気がする・・

そんな方にも、私のコーチングを使って頂きたいと願っています。

コーチングと武道

武術家である友人と話をしていて、自分の中から出た言葉に思わずハッとすることがあった。

 

コーチングは、武道に近いものかもしれない。

 

あくまで私個人の解釈で、と断った上で書くと、

武道における(対戦)相手との対面の場では、相手に対する最大限の「礼」が必要不可欠。

たとえスポーツという形になっても、相手への敵意や憎悪で取り組める競技ではない。

 

そこにあるのは、相手への絶大なる信頼だ。

 

双方の無意識に、その基盤があるからこそ、相手に敬意を払い、全力で対峙し、互いに一切の遠慮なし、手抜きなし、躊躇なしの空間を、相手と共に「今この瞬間から」作り上げていくことができる。

 

コーチングにも、流派はあれど、その精神は武道と共通するところがある。

まず、相手への絶対的な信頼と敬意。

これ無くして、コーチングの関係は成り立たない。

 

「人は生まれながらにして、欠けるところのない存在である」という揺るぎない信念のもとに、相手の言葉や表情、動きを空間全体で捉えながら、その人全てに焦点を当てていく。

決して、相手の「欠けているところ」をコーチングで探究していくわけではないのだ。

 

それは過去の記憶や未来への予測や懸念からではなく、「今この瞬間」から創り上げていく「空間」であり「時間」である。

そこには、相手からの信頼と、やはり「この場を共に創り上げ、前に進みたい」という互いの強い願いがなければ成り立たない。

 

時として相手が聞きたくないであろうこと、目を背けてきたことも、コーチは容赦なく言葉にする。

相手のため、というよりも、今、相手の中に起こっている感情と本気で対峙し、一切の遠慮なし、手抜きなし、躊躇なしで向かい合うことができなければ、相手の「本質的な変化」へと繋げていくことはできないと知っているから。

 

***

 

私は学生時代に空手を学び、極めたとは言いがたいレベルで遠ざかってしまったけれど、「礼に始まり礼に終わる」場で叩き込まれた、武道の精神のなんたるかの片鱗が、脳裏にしっかりと残っていた。それがコーチという立場に変わっても生きていたと感じられたことが、素直に嬉しかった。

今日、たまたま会話の中から、自分が体を張って取り組んできた二つのことー過去の点と現在の点が繋がったような感覚を味わうことができた。

 

精神とは生命のように不可解で、形状不安定だが、最後は本質の核だけが魂に生き続け、人生の糧になっていく。

それは今、聞くべき声なのか?

コーチングのみならず、色々な方の話を聞くようになって

「本当にやりたいことを見つけたい」
「自分の好きなことを仕事にしたい」

という声をたくさん聞くようになりました。

それ自体は、とても素晴らしいことだし、何がその人を突き動かしているのか好奇心が湧くし、何らかのかたちで心から応援したい気持ちになる。

 

でも、「動き出したいのに動けない」がセットでついてくることも多い。

彼らを動けなくしているものは何だろう?というポイントは、コーチとしての好奇心の最大の発揮どころなのですが、彼らを動けなくしている「共通のもの」があることに気づきました。

その一つに、「他人の言葉」があります。

特に、その人が信望や尊敬のまなざしを向けていたり、フォローしている人の言葉。

 

天職を見つけたいなら、

「人を助けたい」を動機や理由にしてはいけない

それは他者への依存だ

やりたいことを仕事にしたいなら、

願い、ミッションをまず見つけなければ

ビジョンは何ですか、Beingは何ですか

ワクワクしなければ

頭でなくハラで感じなければ

 

そうだね、確かにそれは、その言葉を発した本人にとっては「正」だね。

でも、その言葉が引っかかって、もっともっと人の役に立ちたいのに、

「人を助けたい」という動機は良くないから・・・と

それ以外のまっとうな動機が自分の中に見つかるまで抜け出せないなら。

やりたいこと探しから抜け出せないなら。

 

それは今のあなたにとって本当に必要な言葉なのか?

 

動けないなら、今、その声に忠実になる必要、あるか?

なんなら、今は聞かなくたっていい。

だって、それで動けないんでしょ?

聞かなかったら、その人に嫌われるの?

 

いったい誰の為に、
美しい動機や天命とやらを探しているの?

 

 

物事をはじめる動機なんて何だってよくて、

「お金を稼ぎたい」

「貧乏から抜け出したい」

「自己承認のため」

「すごいって言われたい」

「子供のため」

「親に認められたい」

「友達に羨ましがられたい」

だっていいじゃないですか。

実際に自分で手を動かしてからでないと、本当にやりたいかどうか、合うか合わないかなんて、わからない。見えてこない。

 

なのに誰かが言ってる「適切な動機」が見つかるまで動けない。

天命やミッション、ワクワクを感じなければ、

それは他者への依存だぁ〜?

それが見つかるまで、机上や脳内でやりたいこと探しを続けるのは、

あなたにとって本当に心地よいことなのか。

 

本当は動きたいんじゃないの?

人を助けたいんじゃないの?

助けたっていいじゃないか。

ありがとうって言われたくて

働きかけたっていいじゃないか。

 

まずやってからゴニョゴニョ言う。

ぐるぐる考えるのは、それからでもできますから。

 

***

 

それでも、飛び込む勇気が出ない・・というなら

コーチングで、一度あなたを崖から突き落とすお手伝いができるかもしれません(笑)

背中を押して欲しい・・でなくて背中を貫通するくらいに突き落として欲しい方はこちらまで!